永野郷土史 縄文時代

一、古代の永野

 

2 縄文時代

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※口絵図 1~4


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 永かった氷河期も終りをつげ、やがて気温も温暖になり、地上に緑がよみがえるようになります。きびしい狩猟生活に堪えぬいてきた旧石器時代人の後裔たちは、初めて粘土を焼いて土器をつくることをおぼえました。それはいまから一万年ぐらい前のことです。

 縄文文化のめばえは土器がつくりだされたことにはじ まり、これより後、数千年も続くので、この時代を縄文時代といっています。土器の表面に縄目の文様が施されているのがおもなので、これを縄文式土器とよんでいます。いままで石器にたよっていた彼らは、新しく土器を知り、やがて弓欠をたずさえて狩猟・漁携の採取経済にささえられながら少しずつ徐々に進歩していきます。

 縄文時代の過程を縄文式土器の形式にしたがって、早期・前期・中期・後期・晩期に区分しています。さらに最近では早期の前半を草創期とする提唱がなされているようです。数千年に及んだ縄文文化は当然進化があり、土器は生活の必要から生じた形態と、さまざまな文様で表現されています。土器はつくられた時期と場所で異なり、他の地域とでは変化があります。この変異の特徴を地域別に分け、経年変化と層位学的方法にもとづいて形式を定め、土器を年代順に編年しています。利根川を境とする南関東における縄文土器の編年をもとにした永野のおもな出土状況をあげてみると、早期にはそのはしりがみられ、前期の中ごろから漸増しはじめ、中期にもっとも栄え、後期後半になると急激に衰退を示しています。

7 南開東で古い形式の縄文式土器は、東京都杉並区新町の井草式、横浜市内では南区六つ川町の大丸式や、追浜の夏島武士器が知られています。
早期前半の土器は、太い砲弾型をしていて一様に底が尖っているか、丸底をしているのが特徴とされています。土器の文様は撚紐または撚糸を器面におしっけながら回転することによってできた文様なので、撚糸文土器といっています。撚糸文土器はほぼ関東地方に限って分布し、横浜周辺にもっとも多く分布していることが知られています。
これら土器群に伴われる石器は、自然の礫を打ち欠いて一部に磨きをくわえた礫器がおもで、それ以外の石器はあまり見受けられていないようです。
石器に磨製が認められるようになるのは新石器時代をつげるものとして重要な意義があるともいわれています。
撚糸文の夏島式土器に対比されるものが西洗台から礫器を伴って出土しています。礫器は楕円形で長さ約一〇センチあり、両側面はあらい研磨に縦の細い擦痕と、あばた状の打痕がつけられていました。

 日本最古といわれる夏島貝塚から遺物とともに出土した木炭の放射性炭素を測定した結果では9240(±)500年前後という数値があげられ、さらに最下層のものになるともっと古い年代になるといわれています。愛媛県上黒岩遺跡の隆起線文土器を伴う木炭の測定結果は12156(±)600年であったといわれているので、これが実際の年代に近いとすれば縄文土器の起源は非常に古いということになります。

 放射性炭素測定法は、大気中の有機質はすべて放射性カーボン14という元素を吸収していて、その機能が停止した約五千年後にほその放射能が半減します。この原理からカーボンの減衰量を測定する方法で、有機体の経た年代と伴出した無機遺物の年代比較をします。
早期撚糸文系の土器は、伊勢山台、野庭町1630番地付近、同589番地、下永谷町2180番地付近、同芹が谷794番地付近から発見されています。

7 旧石器時代または縄文草創期の食糧は、もっぱら狩猟と自然物の採取にたよっていたものに漁携をおぼえるようになり、夏島貝塚のような古い貝塚を残すようになります。貝塚は一種のごみ捨て場で、多量の貝がらをはじめ、食料の残骸を捨てた場所を貝塚とよんでいます。陸地内のこうしたごみや土器の破損したものを捨てたところと同様で、当時の生活を知る貴重な資料となる遺跡や遺物が多分に包含しています。
8 永野は武相国境の分水陵と、戸塚区境の丘陵にはさまれ、海抜96メートルをかぞえる野庭丘陵、丸山丘陵、平戸から永作に至る中央丘陵とそれらの支丘からなり、上野庭三谷町を源とする永谷川(野庭川、馬洗川)が柏尾川―境川となって片瀬海芹にそそいでいます。

 当時の永谷川は現在の川底よりもさらに洪積層を深くけずり、深い谷を形成していたと考えられます。
下永谷町1576~8番地おばご台より出土の縄文早期とみなされる握槌形に似た礫器(口絵図・1=このページの一番上)は硬質頁岩で、ナタがわりに木を切ったり動物の骨を打ち砕いて髄をとり出したりするのに用いられたようです。
粘土に繊維を混ぜた土器が現われるのは早期の子母口式・茅山式あたりとされ、縄目の文様はあまり用いられず、荒い沈線や細い棒先の条痕、貝殻などで整形しているのが特徴とされています。織維土器片の分布は、野庭町1272番地付近の伊勢山から黒浜・諸磯a式・b式に黒曜石の欠鉱と打製石斧が伴出しています。同町の八九番地・坂口・的場跡、上永谷町赤坂三550番地付近、下永谷町1980番地付近・同2180番地などに早期撚糸文系土器を含んで分布し、西洗台、おばご台、下永谷町長町一七二七番地の殿屋敷跡などに諸磯a式・b式がわずかに認められています。
諸磯式土器は、細い粘土紐をうず巻状に積み上げたり輪積にする手法で、文様は紙棒の突痕、条痕、半裁竹管、縄文などが施されています。
諸磯期あたりから人口増加のきざしがうかがわれ、移動がちな生活からある程度定住するようになるのはこのあたりといわれています。
当時の気温は現在よりやや高かったようで、動植物がよく繁殖し、海水準の上昇で永野域の低地の一部には海水が干満していた(縄文海進期)と考えられています。

 大岡川や柏尾川流域に小規模の貝塚がのこされており、その貝塚からは暖海性ハイガイの多いのが目立っていますが、いまでは四国以南でないと棲息していないといわれています。永野には貝塚の存在は認められていませんが、上永谷中学校周辺からは球形の石錘が出土していますので、釣具に使用されたと考えます。同周辺より黒曜石の矢鏃数個と凹石が出土し、芹が谷九二六番地付近からは縦形石七、砥石、打製・磨製石斧が出土しています。
縦形石七は東北地方の縄文早期にみられ、関東では前期中頃から認められるようになります。石七は皮はぎともよばれ、獲物の皮はぎなどに用いられていたようです。
凹石は扁平部に数個の凹穴がつけられたもので、クルミ割りとか発火具に用いられたといわれています。丸山入口にあたる上永谷町三六二六番地、奈良橋照雄氏宅の改築時に地下約一メートルから蛤刃の大形磨製石斧(口絵図・2)一個が発掘されました。長さ22、幅8、厚さ5センチのみごとな石斧で、縄文中期のものとみてよいでしよう。
西洗台・丸山(A)より縄文中期初頭の五鋭が台式や阿玉台式土器片などが出土していますが、上永谷字六反田3891番地の丸山(A)遺跡は、昭和四六年三月、横浜市教育委員会で発掘調査を行ないました。

 場所はやや急斜面の畑を上下に教条のトレンチを試み、頂部を発掘した結果、頂部は2、30センチでローム層に達する浅さで住居跡の確認はできなかったようです。
U字溝とおぼしき跡があり、縦形の石七・黒曜石の矢鏃と五領が台式、阿玉台式、勝坂式、加層利E式土器片が出土したと言われています。筆者は丸山(А)の発掘状況をみることができませんでしたが、調査終了の直後、同所周辺で発掘と同程度の形式の土器片を表面採取しました。畑の表土からローム面までが浅いこともありましたが、表面採集でもおおむね遺跡の時代的考察をすることができました。
縄文中期は縄文文化がもっとも栄えた時期で、五領が台式から加層利E式あたりまで続きますが、なかでも勝坂期は縄文時代を代表するとさえいわれるような発展を示します。これは当時暮しやすい気候にあったと思われます。

 縄文早朝の遺物が伴出している、おばご台は、丘陵上が広い平坦になっており、集落を形成する条件が整っていたと考えられますので、遺物の出土範囲からみてかなり大きな集落があったものと推定されます。いまは遺跡の大半が宅造地に変っていますが、以前より耕作地から縄文中期から後期にかけての多数の土器片とともに、各種の打製・磨製の石斧と、石血や敲石・矢じり・石棒などが出土しています。

 打製石斧はおもに土掘り用に、磨製石斧は木材などの加工に用いられ、石皿や敲石またはすり石は木の実を砕いたり製粉などに用いられていたようです。
石棒は集落の統率者のシンボルとか、儀札的、呪術的な用具であるとか、非実用的な器物ではなかったかともいわれています。

 おばご台遺跡と丘を一つへだてた上永谷中学校近傍からも、石棒の一部分とみなされるものが出土しています。
有華寺台では、いま宅造工事が進められていますが、切りくずされたがけから縄文中期の勝坂武士器を伴った竪穴式住居跡が発見されました。すでに住居跡のやや半分がけずり取られていましたが、中心をはずれたところに直径30センチ・高さ30センチの勝坂式土器の埋窯が底部を欠き、ローム層中に垂直に埋められていまし た。器中には他の遺物が混在したようすは認められませんでした。(口絵図・3~4)住居跡は測定で直径が五メートルほどで、床面は五センチの厚さによく踏みかためられ、壁溝は認められず、径約四五センチ・深さ50センチの柱穴が二つ確認され、床面より打製石斧三個と復元すれば径40センチほどの部厚い無文の濠鉢が一個、自然石三個、桃の核一個が出土しました。

11 住居跡の形は、方形か円形か確認できませんでした。
その存在状況からは方形隅円形と推定されましたが、縄文中期の住居跡は円形方式が多いとされています。
プルトザーで表土を削り去った跡のローム層面に数か所の炉跡と思われる焼土と灰が認められましたので、他にもいくつかの住居跡があったものと推測されます。丘の斜面に六メートルおいて二条の幅・深30センチのU字溝が現われ、黒曜石の掻器(図9-l)が伴出しました。がけのローム層上からは縄文中期の五領が台式・勝坂式・加層利EI・Ⅱ式土器片が包含され、竪穴住居
跡近傍に石錐・凹石や多数の石斧が埋没していました。
土器片は勝坂式土器がもっとも多く伴出し、中には丹塗りの土器片もあり、後期の加層利B式から弥生式土器・土師器・須恵器の土器片が包含されていることからみて有華寺台遺跡は、縄文中期前半から後期-弥生時代-古墳時代の永い期間にわたって連続ではないにしろ集落生活が営まれていたことがうかがえます。同遺跡より昭和28年ごろ片刃の磨製石斧が出土し、凹石を杉本久書氏が採掘しております。
勝坂式土器は五領が台式・阿玉台式の形態を継ぎ、太い隆起線や隆起紐を貼り付けたり、皿形文や渦巻文、沈線間に縄文を施し、釣手や大きな把手を付けたものがあり、形は深鉢や浅鉢が多く、粘土質は概してあらく、雲母や珪砂を混入させたものがみられ、金雲母を混入させたものもあります。色は、かっ色または黒かっ色を呈し、誇張されたつくりは豪快で華麗さがあって縄文式土器の代名詞とさえいわれているくらいです。

 中期後半の加層利EI・Ⅱ式土器は勝坂式とともに有華寺台遺跡はもとより永野にも随所に分布していますが、文様はややあらい縄文に隆起曲紐を貼り付けたり、胴部に太い沈線をえがいたものや、磨消文が現われるようになり、勝坂式にくらべやや縮小した把手などがついています。縄文後期初頭では称名寺式土器がおばご台から、堀の内式および加層利BI・Ⅱ式が、おばご台、伊勢山・坂口、下永谷般若寺上方などに認められています。

 縄文後期もほぼ中期の影響を受け継ぎ、土器の製作技法は著しい進歩を示し、土器の焼成度もあがって堅牢となり、器形は小形化がめだち薄手の土器が発達するようになります。
千葉市の加層利貝塚出土の土器を標式とした加層利BI・Ⅱ式は薄手を基調とするもので、粘土で駆使できるあらゆる器形を創作し、彩色土器が現われるようになります。文様も巧妙を加え芸術性がうかがわれるようになってきます。縄文晩期に属する形式の土器は、いまのところ見受けられていないようですが、戸塚区桂町から桂台式を標式とする遺跡がありますので、いずれその存在が明るみになると信じます。いずれにしても縄文中期が旺盛だったのに比べ後期・晩期になると永野の丘陵部のいたるところに分布していた遺跡や遺物が、加層利式あたりからその存在が絶えてしまいます。これはこの時代に苛酷な天変地変がおこり生活を拒まれたことに起因するものか、または人口増加による食糧の不足などで分散をよぎなくされたことによるものか判然としませんが、
隆盛だった縄文中期に比べ遣物の存在が極度に減少していることは否めません。


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