永野郷土史 歴史書に見る永野

歴史書に見る永野


七、皇国地誌村誌より見た永野

 「徳川時代の沿革、管轄、所属、石高」
 本村「永野村」現永野地域は三大字共往昔、相模国東郡山の内の荘に属し永谷郷(永谷、平戸、品濃、山田、秋葉、名瀬、柏尾、舞岡)永谷村、野場村と称せられしを後(年代不詳)小坂郡に属し、天正十八年庚寅、徳川氏の所領となり、旗下彦坂小刑部、支配す。延宝年間、鎌倉郡に編貫せられ、分割して、永谷村は永谷上、永谷中、永谷下、野場村は上野庭、下野庭の両村となる。

1 永谷上村、石高二百四十二石
 宝永五年三分せられ八十二石は旗下山田立長の釆地に八十石は旗下斎藤喜六郎の釆地に余は旗下鈴木兵部の釆地となり、文化八年三月、一村を挙げて、松平肥後守、容衆の領地に転じ、文政四年三月、旗下、蜷川相模守規文の知行に移り、以って明治初年に及び、永谷中、永谷下両村と合して永谷村となる。

2 永谷中村、石高四百四十六石
 彦坂小刑部の子孫、世襲し以て明治初年に及び、永谷上、永谷下両村と合して永谷村となる。

3 永谷下村、石高九十三石
 宝永五年旗下、蜂屋孫十郎の采地となり、文化八年三月、上村と同じく、松平肥後守の領地に転じ、文政四年三月、旗下、蜷川相模守の知行に移り、以て明治初年に及び、永谷上、永谷中両村と合して、永谷村となる。

4 上野庭村、石高三百八十五石
 延宝六年代官、成瀬五左衛門支配に転じ、寛政三年三百四石余は旗下、井上左太夫采他に属し、八十一石余は、旗下、高橋与五右衛門知行に移り、文化八年、村を挙げて、松平肥後守の領地に転じ、文政四年には松平大和守、嘉永七年には、細川越中守、文久三年には堀田相模守の領地に転じ、慶応三年に至りて再び徳川氏の直隷となり、代官、江川太郎左衛門支配し以って明治初年に及ぶ。

5 下野庭村、石高百五十四石
 上野庭と同じく、延宝六年代官成瀬五右衛門支配に転じ、牟礼遠江守勝久上原元次郎藤本主計(以上年不詳)の領地に転じ、文化八年松平肥後守容衆の領地となり、文政四年松平大和守矩典の領地となり、以って明治初年に及ぶ。


八、港南区の歴史に見る永野

1 古代の港南地区
  昭和43年10月1日に横浜市高速鉄道すなわち地下鉄の起工式が行なわれて上大岡から工事に着工したがその工事中地下7メートルから10メートルの間に於て「イルカの頭部」 「カキの貝殻」 「馬鹿貝」 「ハイ貝」や「猪の骨片に貝殻の附着したもの」などが発掘された。これは死んだ猪が山から流れて海に沈み貝が付着したものと思われ、横浜を取り囲む丘陵と丘陵の間は古代は海であって、深く湾入していたといわれていたが、この港南の地も、その例にもれず、海洋であり、「イルカ」が棲息したことによっても立証された。「ハイ貝」は有明海、瀬戸内海の一部に生存したものであって、現在は四国以南でないと生息していないといわれ、約一万年前の縄文期のものであるということである。

2 支配体制の変遷
 「所領役帳」 の記載を見ると「御家門方」 のなかに「宅間殿」とあって「港南区では永谷と南区の永田の地で300貫文を知行している。
  この宅間殿とは兵庫助房成であろうと「横浜市史稿」には書かれてある。兵庫助房成は永禄七年鴻台において討死している。その孫の治郎大輔規富は北条最後の氏直につかえたが元和七年(1621)正月16日に残し、二俣川の三仏寺に葬むられている。規富の妹は間宮綱信の妻であった。綱信は氷取沢に隠棲した人である。
 宅間家は永谷を中心にした古い豪族であったが、墓所は代々二俣川の三仏寺が菩提寺でいまも整然とまつられている。
 小田原北条氏が滅亡し関東の地は、徳川家康が江戸に入ってから、その支配体形は大きく変化した。
 野庭町
 往昔は上野庭村、下野庭村に別れ、相模国鎌倉郡山の内庄に属し、地名を野場とも野葉とも書かれた。村を上、下、に別けた年代は伝えていない。
 上野庭は民家三九、下は七軒、上野庭は天文から天正年間の小田原北条氏の頃は、鎌倉松岡東慶寺領であって、狩猟人のこの地に入るを禁じていた。
 はじめこの村は天領であったが、宝永四(1707)年8月19日井上左大夫正次に賜り、文化8(1811)年松平肥後守容衆領分となり、文政4(1821)松平大和守短典の采地になった。
 下野庭は元禄二年は牟礼遠江守勝久、その後上原元次郎、藤本主計等の知行所となったが、文化八年上野庭と共に松平肥後守容衆の領地となりたもので、上下の村境は入り組んで複雑となり、両村の飛地も多い。
 明治維新のころは上野庭石高三八五石七斗四升六合下野庭石高一五四石三斗一升二合であったが、代官、江川太郎左衛門の支配地となっていたがほかに下野庭では、松風山栖林院正応寺除地として、一石三斗四合もあった。
 明治22年市町村制施行のおりに鎌倉郡永野村となった。これは永谷と野庭の頭文字をとって村名にしたものと思われる。
 上、下永谷町はじめ永谷上村、永谷中村に分かれ江戸から10里の地にあって、小田原北条氏の頃は、宅間綱頼の知行所であった。
 永谷上村は、徳川時代に至って、松平大和守、山田立長、鈴木隼人、蜂谷七兵衛が知行したが、文化八年松平肥後守の領地となり、文政四年蜷川相模守親文が采地となった。民家50。
  永谷中村は民家四三にて彦坂九兵衛の采地となり明治新政府となるまで、各々その子孫、蜷川季左衛門四二二石二斗三升、彦坂民之助四四一石七升三合四勺を領地にしていた。上永谷の四石六斗一升一合は代官統治として、江川太郎左衛門が支配下であった。

3 市域拡張と港南区誕生
 昭和11年10月1日 第四次市域拡張にあたり、鎌倉郡永野村を分けて、野庭町、上永谷町、下永谷町として中区に編入した。
 昭和18年12月1日 中区から南区が独立すると、これ等の町々は南区になり、昭和44年10月1日 港南区の誕生にあたり永野地区は港南区を構成するうちの町として南区から分離した。

 「注」 「港南区の歴史」の著者は現 横浜郷土研究会副会長森篤男氏で、当地区の郷土史をよく要約され、一読瞭然と、全貌がつかめる。ここに永野地区に関係ある事項を抜粋掲載した。


九、新編相模風土記に見る永野

1 野庭(能婆)下野庭一村此郷名を唱ふ、按ずるに今上野庭村永谷郷を唱ふるは誤なるべし、天文十八年の文書(松岡東慶寺蔵)に野庭と記し、北条役帳に野菜に作る皆当時の偶記なり

2 永谷(奈加也)管する村十二(永谷上、永谷下、上柏尾、下柏尾、平戸、品野、前山田、後山田、秋葉、名瀬、阿久和、上野庭)北条役帳に永谷の名初めて見ゆ郷名に唱へしは古きことにあらず

3 永谷川(馬洗川)
 戸部川(登辺可波)(馬洗川、永谷川、赤関川、柏尾川、小館川附)源下野庭村より起り永谷上村に至り、馬洗川と呼び上柏尾、下柏尾、名瀬三村にては永谷川或は赤関川とも称す寺田町以下九村(矢部町戸塚宿上倉田下倉田長沼金井田谷飯島長尾台)に至りては柏尾川と唱へ岡本村にて始めて此川名を得流未十一村(岡本笠間大船小袋谷台山崎植木高谷上町谷宮の前小塚) 戸部川と称す、又小館川と唱ふる村四(梶原村にて此川名起る笛田寺分弥勤寺)あり、末は川名弥勤寺二村の境にて境川に合す(幅六尺より末は十間許に及ぶ)此水流を以て田間に沃ぎ水田を耕植する村許多あり(永谷上永谷中戸塚宿三ケ町長沼上倉田下倉田下倉田上柏尾下柏尾関谷岡本植木前山田十四村なり)水防堤を設く(高七尺よりニ丈)

4 鎌倉古道、小菅谷村本郷六村の一なり、鎌倉道西南の方を通ず(幅二間よりニ間半に至る、又古道と称するあり、南方笠間村界にて今の道より北に折れ村の中央を貫き永谷村に達す幅六尺より九尺に至る、按ずるに正保の国図には此道を本道とす)

6 永谷上村(奈我也加美牟良)江戸より行程十里、永谷郷に属す、小田原北条氏割拠の頃は宅間伊織綱頼知行す(役帳曰「宅間殿二百五十貫文、東郡永谷普請役は有之出銭其外御用時は以御直書可被仰出」又村内天神社縁起に天文十二年領主宅間伊織藤原綱頼社頭を再建せし事見ゆ)蜷川相模守親文が采地なり(昔は松平大和守、山田立長、鈴木隼人、蜂屋七兵衛等知行せしが文化八年松平肥後守容衆領分となり、文政四年今の地頭に賜ふ)民戸五十、天正十四年十二月藍瓶の税務を諸村に課せし文書に永谷の名見えたり(足柄下郡板
 橋村京紺屋藤兵衛蔵文書曰「前岡永谷右之在所不入与申紺屋不出候由、曲事に堅申付可取、若猶兎角申不出侯はば可申上他郷へ越し侯共、其在所迄ただし、役口可取者也仍如件、丙戌十二月廿五日、京紺屋津田、虎朱印、江雲奉之」とあり)同十九年彦坂小刑部元正検地の後、今に至りて其の法に随ふ、旧は当村上中下三分の別称ありしなるべし中古中分の地を分ちて別村を建つ是今の中村なり、今当村内を区別して、上分下分の別称あるは共遺れるなりされば中村の地当村と一区たりし故地形大牙して広袤四隣共に弁別しがたし故に爰に括載す
 広二十町袤三十町(南上下野庭小菅谷三村、西舞岡上下柏尾三村、北平戸村及び武州久良岐郡引越別所二村.東同郡望松本久保別所三村)飛地四町四畝平戸村小名伊予殿根(昔天神神職、伊予と云ふもの居住せし跡なれば此称ありと云ふ)有花寺(宇計慈地蔵院の所在なり)半在家、丸山、中里、天神前、木曽、水田、鍋谷、宮田、山谷、
馬洗川南北に貫けり(幅三間元禄国図にも馬洗川と載す、鎌倉古路係りし頃此流にて馬を洗ひしより此名ありと伝ふ)橋を架す(長三間半)有花寺橋といふ  

天神社、村の鎮守なり、神体は(長一寸八分)縁起に拠るに延喜二年菅公筑紫に在りて宝鏡に向ひ躬づから模刻して令子敦茂に興へられし真像なりとぞ、後菅原文時藤原道長上杉金吾等相伝せしを明応二年二月当所の領主藤原乗国(当国八郷を領し永谷郷に居城せしと云ふ)霊夢の告により此地に始て宮社を営み安置すと云ふ、其後天文十二年領主宅間伊織綱頼修造を加へ天正十年同氏規富再造せしとなり。末社妙義白山。妙見。稲荷。

別当貞昌院、天神山と号す、曹洞宗(後山田村徳翁寺未)旧は上之坊下之坊と号せし台家の供僧二宇在りしが共に廃亡せしを天正十年に至り、其廃跡を開き、当院を起立す、開祖は文龍(天正十九年四月十六日寂す)と云ふ、本尊は十一面観音(長八寸行基作)。神明宮二、羽黒社、浅間社、以上貞昌院持

「注」上の坊は上永谷町5358番地附近一帯、現、田辺達雄氏宅東方地域、下之坊は上永谷町3400番地附近一帯、現、鈴木義雄氏宅西方の山腹、故に鈴木義雄家を寺下と呼称す、両坊共に七堂伽藍を具備せしと」

般若寺、無量山と号す、古義真言宗(武州久良岐郡太田村東福寺末)弥陀を本尊とす  
地蔵院、浄土宗(平戸村光安寺末)有花寺と号す、本尊は即ち地蔵なり


7 永谷中村(奈我也那加牟良)永谷郷に属す、上村と地形錯雑せるを以て広袤四隣は既に上村に括載す、江戸より行程十里、民戸四十三、検地は元文五年伊奈半十郎忠達糺せり、今、彦坂美濃守が采地なり(先世九兵衛の時拝賜す)持添の新田あり小名、御宝殿(吾波宇天武)渡戸(和多士)叭山(加万須也未)御下長町(於志多奈我未知)角田(須美駄)峯ノ久保、八木、田向、上ノ庭、鳥打ケ谷、なべ谷、権田ケ谷、せりケ谷、般若寺坂、永谷上村般若寺の傍にあり(登一町半許)馬洗川村内を貫けり  

神明宮、村の鎮守とす、祭礼十一月十六日、村持下同八幡宮春日を合祀す
光照院 本城山と号す 浄土宗(平戸村光安寺末)本尊弥陀を置く 閻魔堂 棲心庵、弥陀を本尊とす、村持  
白旗明神社、村の鎮守とす、乾元々年九月九日鶴岡相承院の前住元智の勧請と云ふ、後頼朝の遺髪三筋を得て神体とす、こは明和六年十月相我院より伝来する所なり(東福寺所蔵文書曰「鎌倉郡永谷村永谷山東福寺鎮守白旗大明神者乾元元年壬寅九月九日鶴岡相承院先住元智之時勧請旧記明鏡之上今般右大将家御鬢髪三筋相送侯此度東福寺慶厳任所望者也干時明和六丑年十月十四日東福寺慶厳和尚鶴岡相承院密信華押」按ずるに鎌倉法華堂の什堂に頼朝の遺髪を蔵す、相承院の管する所なり、則是を領ちて譲与せしなるべし、祭礼十
一月十九日、東福寺持、末社稲荷山神

8 上野庭村(加美能婆牟良)江戸より行程十里余、永谷郷に属す(按するに永谷八郷と唱へ八村属す、野庭は其員外なり、既に下村は野庭を以て郷名とす、野庭郷の名は古記に見えたれば得たりと云ふべし、永谷郷を唱ふるは誤りなることを知らる)天正元年の頃臼井木エ右衛門と云へるもの草創し(今大町村の居、宗右衛門の一族と云ふ)同四年検地ありと伝ふ、按ずるに
村名古は野場(松岡東慶寺蔵天文中の文書及正保国図)或は野葉(北条役帳及び松岡東慶寺蔵天正二年の文書)に作る且つ天文中の物に此地名を載せたれば天正の開墾といふは誤なり、蓋此頃新開の地などありしを斯く伝聞せしにや、上下に分折せし年代は伝へず、元禄の改に初て二村に折記す、年代推究して知るべし、民戸、三十九、東西六町南北十町、西下倉田、南鍛治ケ谷、小菅谷二村、北永谷上、下野庭二村、東武州久良岐郡金井村)天文の頃より天正年間に至るまで、松ケ岡東慶寺の所領なり、天文十八年三月、小田原の評定衆、石巻下野守康保承りて、当郷中え捕鳥人の入ることを禁せしむ、是松ケ岡の寺領たるを以てなり(松岡東慶寺文書に拠る、彼等条に引用す、併せ見るべし下永禄天正の条も同じ)永禄二年に改めし北条役帳にも松ケ岡の領たりし事見ゆ、天正二年八月安藤豊前守良整等承りて当郷の民に税務課役の定法を令す、今領主松平大和守矩典なり(寛政四年迄御料所なりしを井上左太夫に賜ひ、文化八年松平肥後守容衆領分となり、文政四年、今の領主に賜ふ)延宝六年成瀬五左衛門検地す、秣場あり(反別十四町一段一畝余、下野庭村と組合へり)飛地六段下野庭村に在り
 小名-宮ノ久保、深田、(己上二所松ケ岡東慶寺蔵天正二年の文書に「二貫四百文宮窪深田堂免」と見えたる是なり)天蔵田(天武座宇多)十里木、谷堀(也止保利)細田、島田、池田、仲之町、柳町、狩又、新蔵、かしま、岩河、西谷、粟立、三段町、前田、菖蒲田、てん谷、池之谷、元入、柏葉、桃之木、蘆久保、入之前、

川、村内の清水一条の小川となりて北流す、流末永谷村に至りて馬洗川と云ふ是なり

蔵王社、村の鎮守とす、祭祀十一月十日浄念寺持、
浄念寺、蔵王山正定院と号す、浄土宗(大町村安養院未本尊弥陀、開山呑霊(昌蓮社深誉と号す、元和二年九月七日寂す、開基は臼井木工右衛門なり(法名、正定院専誉浄念天正十八年九月廿三日死す、即当村の開発人なり)観音堂、如意輪観音を安す、支院、西長院、本尊弥陀

9 下野庭村(志毛能婆牟良)江戸より行程十里余、野庭郷と唱ふ、民戸七、東西二町余、南北六町許、南上野庭村、西北、永谷上村、東武州久良岐郡吉原、松本、金井三村、領主は松平大和守矩典なり(古は牟礼遠江守勝久、上原元次郎、藤本主計等の知行なり村内白旗社元禄十一年の棟札に牟礼遠江守の名見ゆ文化八年に至り、松平肥後守容衆領地となり、文政四年今の領主に替る)検地は延宝六年成瀬五左衛門糺す鎌倉より武州久良岐郡に達する小径、西北を延互す、飛地一町三段九畝三歩、上野庭村にあり小名-永作(松岡東慶寺蔵、天正二年の文書「三貫八百五十文畠年貢長佐久」と見えしは此地なり)深田(此地名上村に註記す)天谷(天武也)西ノわき、山かけ、二段田、入之前、池ノ谷、ほそ田、清水谷、川
 村西を流る、幅六尺、北隣永谷村馬洗川の上流なり、

白旗権現、大母(於保暮)明神合社、村の鎮守とす、祭礼十一月九日、元禄十一年時の地頭牟礼遠江守勝久が造立せし棟札あり、神明宮、村持
正応寺、浄土宗、武州久良岐郡松本村正覚寺末、松風山栖林院と号す、本尊弥陀、開山冷吟、真蓮社栄誉と号す、寛永十一年七月八日寂す、本堂中に嘉歴四年の板碑を置く
鬼子母神堂 村民持 薬師堂 村持

「注」「新編相模風土記に見る永野」の文中七九ページ上段、後ろより三行目、同ページ下段始めより五行目にそれぞれ〝戸部川〟(登辺可波)とあるのは「永谷川」=「柏尾川」の誤記とみなされます。


 

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