No.28

人人悉く道器なり

 昔、インドに脇尊者と呼ばれる僧がいました。 この尊者は、伝説によりますと、生まれる前に母の胎内に六十年、生まれてから八十年の計百四十歳で出家を志し、師の伏駄密多尊者に参じたということです。

 周囲の人々は、そんな老人になってから出家しても修行に耐えることはできないであろうからと、断念することを勧めました。 しかし、尊者は意を決し、昼はお経を唱え、夜は坐禅をしてひとときも師の脇を離れず修行しました。そのために脇尊者と呼ばれたそうです。ついに、三年間の精進の末、悟りを開き、お釈迦様から数えて十代目の法を嗣いだといわれています。

 冒頭の句は、その脇尊者の故事に因んだ瑩山禅師のお言葉です。禅師は脇尊者の故事を例にして、人々は誰でもことごとく道を得ることができる器を備えていることを説かれています。ここでいうところの道器とは、人が人として進むべき道(仏道)の器のことです。その道器が開花するのに、人や時期を選びません。

 「思いたったが吉日」ということばがありますが、気がついたとき、強く心に決めたとき(発心:ほっしん)が最善の時である訳です。

 それでは、焦らなくてもいつでもいいようにも思えますが、この言葉の奥では、日々刻々が「道器」としての大切な一瞬であるので、毎日の生活を漫然と過ごすのではなく、脇尊者のように、心身を惜しまずに精進努力するべきであることも同時に私達に教えてくれています。


解説
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