No.40

学道の人は、吾我のために仏法を学する事なかれ
学道の人は、只、仏法のために仏法を学すべきなり
『正法眼蔵 随聞記』

 今年もまた春が廻ってきました。長く厳しい冬を経て、自然界がようやく活発に動き始めるこの時期は、私達人間にとっても新しい生活が始まる季節です。  真新しいスーツの新社会人や、初々しい制服がかわいらしい新一年生たちが、希望に顔を輝かせて通勤通学の路を歩いています。お坊さんの世界も同じです。全国各地の修行道場(僧堂)でも、新しい修行僧を迎える光景が見られます。

 禅寺で修行することを安居(あんご)といいますが、私にとって、初めて僧堂に安居したときのことは、とりわけ強い印象を持って覚えています。なぜなら、僧堂では読経や坐禅修行のみならず、食事作法から歯の磨き方、歩き方、就寝にいたるまで、生活の全般にわたってそれまで経験したことのない様々な規則のなかで生活しなければならないからです。慣れないうちは極度の緊張や疲労、空腹のなか、決められたスケジュールをこなすのが精いっぱいです。けれども、自分がそのとき行うべきことに没頭し、他のことを考える暇もなく、一つのことに集中するという貴重な経験を持てるのもこの時機なのです。

 勉強や仕事を始めるときに、目標を立てることは大切です。それによって努力の方向や作業の進め方、今後の予定を立てられるからです。しかし、こと仏道修行においては、何々のためにという「目標」を立てること、さらには「何々のため」と意識することさえ、まだ吾我(私心)を離れていないというのです。「吾我」とは、自分の考えや利益を先とする心のことです。吾我(私心)を離れるとは、「何々のために何々をしている」という目的意識すら忘れて、そのものになりきっているという境地を指します。強いて言えば、行為そのものが目標であるとも言えます。

 このことを、私たちの日常生活に当てはめて考えてみましょう。

 先ず、どのような場面でも、先入観を排してできるだけ相手の話をよく聞き、ありのままを受け取るように努めましょう。自分をからっぽにすることによって「吾我」を離れ、すべてが素直に自身の中に入ってくるはずです。

 そして、勉強でも仕事でも、その行為なりきること、つまり試験でよい点をとりたいとか、営業成績をよくしたいということすら忘れて、勉強することや仕事をすることになりきるという境地に達すること、このことが、表題の句の本意なのです。


解説
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