修證義(シュショウギ)
第五章(行持報恩-後半)
光陰は矢よりも迅(スミヤ)かなり、
身命は露よりも脆(モロ)し
何れの善巧(ゼンギョウ)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(カエ)し得たる、
徒(イタズ)らに百歳生けらんは恨むべき日月(ジツゲツ)なり、
悲むべき形骸(ケイガイ)なり、
設(タト)い百歳の日月は声色(ショウシキ)の奴婢(ヌビ)と馳走すとも、
其(ソノ)中一日の行持を行取(ギョウシュ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、
百歳の佗生(タショウ)をも度取すべきなり、
此(コノ)一日の身命は尊ぶべき身命なり、
尊ぶべき形骸なり、
此(コノ)行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、
我等が行持に依りて諸仏の行持見成(ゲンジョウ)し、
諸仏の大道通達(ツウダツ)するなり、
然(シカ)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子(シュシ)なり、諸仏の行持なり。
謂(イワ)ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、
釈迦牟尼仏是れ即心是仏(ソクシンゼブツ)なり、
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、
是れ即心是仏なり、
即心是仏というは誰(タレ)というぞと審細(シンサイ)に参究すべし、
正に仏恩を報ずるにてあらん。
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