曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
ある科学者のレポートを目にする機会があった。
それは、人が荼毘にふされた後どうなっていくかという内容だった。
私たちは死ぬと火葬される。その灰が、たとえは火葬場の煙突から煙にまじって、空気中にひろがっていく。私たちの身体はおよそ十の二十三乗個の原子でできているが、灰にふくまれた原子がおよそ三年から十年の時間をかけて、高層のジェット気流などに乗りな がら、地球全体にひろがっていくのだそうである。
ひろがった原子は、地中に混じり食物となる。あるいは、呼吸を通して、人体に摂取される。
そうして、あるひとりの人が死んだ三年から十年の後、受胎をした新生児の身体の中に、原子が平均して三個から四個入りこむ。さらに、母親の食事を通して、かわるがわる原子の交換が営まれるという。 私はこれを読んだとき、とてもひろやかな気持ちになった。
身近な親しい人、愛していた人を亡くした十年後に、ふとつけたテレビのニュース番組の中で笑っているリオデジャネイロのこどもたち、ナイロビのこどもたち、ニューヨークのこどもたち、北京のこどもたち、テヘランのこどもたち、ロンドンのこどもたちの中に、 私たちが愛していた人のいのちが、新しいいのちの一部となって、脈々と息づいているのだ。地球いっぱいのいのちとなって生き続けていくのだ。
そしてまた、私たちひとりひとりのいのちも、そのようにして、いろんないのちでできている。私たちは、いろんないのちをもらって生まれたのである。
過去からのいのちのつらなりと未来へ続くいのちの間に私たちは生きている。
いや、生かされているのだ。