キサーゴータミーのかなしみ

風の道・・・つれづれに・・・



 第12回 キサーゴータミーのかなしみ

 愛する人を喪ってしまったかなしみを癒すことのできることばは 行いはなんだろうか。

 私自身はその答えをいまだ見つけることができないでいるが、ブッダは、ひとつの明快な回答を経典中にのこしている。

 インドのある村の、キサーゴータミーという女性は、幼子を亡くし悲しみに身も心も壊れんばかりだった。愛児の死を受け容れられず、死んだ赤子を抱いたまま、「この子を生き返らせて、この子を 生き返らせて」と会う人ごとに激しい哀願をかさねるが、もとよりかなわぬことである。見かねたある人がブッダにたすけをもとめた。

 ブッダは、ゴータミーにこのように言った。

 「この村の家々をまわって、けしの実をもらってきなさい。ただし、これまで一度も死人を出したことのない家のけしの実でなくてはいけない。それをもらってわたしの所に持ってきなさい。そうすれば、赤子は息を吹き返すだろう」

 ゴータミーは勇んで、家々を回った。我が子が生き返ると聞いた彼女は必死だった。

 しかし、訪問をうけた家の人たちは、悲しく首を振るだけだった。

どの家を回ってもけしの実は手に入らなかった。死人を出したことのない家は一軒もなかったのである。

 その時、ゴータミーははっとした。愛するものを喪った悲しみはわたしひとりのものではない。これまで、みなが味わってきたかなしみなのだ。生きとし生けるものは死をまぬかれることができない。 そのことわりをしっかりと胸にだいて、かなしみをしずめなければならないのだ。そう思ったとき、かなしみは消え、ゴータミーはブッダの弟子になったという。

 ブッダのこのことばに初めてふれたとき、そのことばは残酷なものに感じられた。泣き叫んでいるものに、ことわりを説いても、なんら無益なことではないかと思った。

 しかし、虚心に考えてみると、ブッダは、ここでは直接的に教えを説いていない。ゴータミー本人が、「人は死ぬ」ということわりに気づいてくれるように、ことばをかけているのだ。願いをかなえることができるのなら、かなえてあげたいという気持ちさえ、ほのかに感じることができる。

 真理はかならず人を癒す。悲しみ泣き叫ぶものに真理を説くという営みは、ブッダのその信念に支えられているのだ。

 ゴータミーへのことばから、ブッダの深く広いやさしいまなざしが見えてくる。

 私は、このようには言えない。けれどいつか僧侶として言わねばならないときのために、ブッダのことばや、生と死といういのちの真理に、思いをいたさなければならないと思っている。

 真理はかならず人を癒す。そして、真理は与えられるものでなく自ら気づくものである。ブッダのことばはその手助けをしてくれるのである。


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