曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
仏典にこんな話がある。
ブッダがさとりを得て間もなくの頃のこと。ブッダはバーラーナシー(ベナレス)からウルヴェーラという都市へ移動する道中、道 から離れた森に立ち奇つて、一本の樹のもとに坐した。
ちょうどその時、森では三十人の若者たちが、それぞれの妻をともない遊んでいた。その中の一人は独身であったので、妻ではなく 遊び女をつれてきていた。
若者たちは我を忘れて遊んでいたが、その間にかの遊び女は、彼らの持ち物を盗つて逃げた。彼らは、それを知って、あわてて森の 中を探し回った。
彼らは、樹のもとに坐しているブツタを見て、近づいて尋ねた。
「世尊よ、一人の女を見なかったか」
「なんじらは、女を探して何としようとするのであるか」
ブッダの問いに、彼らは持ち物を盗って逃げた女を探している事情を語った。
ブッダはその由を聞き彼らに言った。
「なんじらは、いかに思うか。女をたずねると、己れをたずねると、いずれが大事であるか」
彼らは、こう答えた。
「それは、己れをたずねることが大事である」
「なんじら、しからば、ここに坐するがよい。わたしはなんじらのために法を説くであろう」
彼らは、ブッダを拝し、そこに坐した。
ブッダは、彼らのために、次第をおうて法を説いた。その説法に若者たちは、真理の眼を生じ、ブッダに帰依をしたという。
このエピソードに接し、私は少し頬をゆるませてしまった。ブッダの若者たちへの問いが、あまりにも唐突だったからである。
実際に自分が若者たちの立場になってみる。例え相手が遊行の修行者だったとしても、血眼になって自分の金品を持ち去った遊び女を探しているときに、「女をたずねるのと、己れをたずねるのとどつちが大事なのか」と逆に尋ねられたとしたら、「おいおい、勘弁してくれよ、それどころじゃないんだよ」とツッコミを入れたくなるだろう。
けれど、驚いたことに若者たちはこう答えているのである。
「それは、己れをたずねることが大事である」
私は、ゆるんでいた頬を引き締めた。
このエピソードの若者たちは、若さを謳歌し遊びに耽っている、どちらかといえば亨楽的な人間として描かれている。しかし、この若者たちは、ブッダの選択をせまる問いに、哲学的な回答を選んでいる。
哲学的な回答を瞬時に選ぶことができるということは、平素から少なからず、それらの命題について思索をしているということである。そのような下地がなけれは、ためらうことなく遊び女を追いかけているに違いない。
ブッダの生きていた時代の社会には、全体に哲学的な雰囲気があったとは聞いていた。自由思想家が多く現われ、王侯貴族たちは彼 らに積極的に教えを求めたということは知っていた。
しかし、森で遊ぶ若者たちも例外ではなかったことを、私はこの話によって、初めて知ったのであった。
私は、若者たちのようには、答えられないだろう。そう答えるには、心が浅くなっている。
けど、だからこそ、「己れをたずねることが大事」なのだと、この話は私に示してくれているような気がする。
仏教はまず自己の存在の省察を求める。いや、それに尽きるものなのかもしれない。
ブッダは「次第をおうて説いた」とある。きっちりと、明快に、順序だてて、丁寧に説いたブッダのことばを、若者たちは真摯に受けとめ、仏教徒となった。
まず私は、平素の思索の下地をつくるところから、始めなければならないだろう。でなければきっと、「次第をおうて説いた」ブッタのことばの中に流れる清冽な水脈を、ほんとうに汲み取ることはできないだろうから。