曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
海を見ると、どうしてあんなに広やかで安心した気持ちになるのだろう。
そういえば、十代の頃失恋をするとよく海を見に行っていた。不思議だが、暗い心を慰めるのは、穏やかな春の海ではなくて、重く激しい冬の海のうねりだった。鎌倉の稲村ヶ崎の突端で、海風に頬をなぶられながら少しずつ苦い思いを薄めていたことを思い出す。海はその姿に拘わらず、私たちの心に郷愁をおぼえさせるものなのかもしれない。
三好達治の詩に「郷愁」という作品がある。
蝶のような私の郷愁!
蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角に海を見る・・・。
私は壁に凭れる。隣の部屋で二時が打つ。
ー海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
この散文詩からは、母なるものへの憧れが匂い立ってくる。蝶という形象に仮託された思いは海に向かう。何故だろうか。
それは、海は母そのものであるからだ。詩人の直感は日本語とフランス語の「海」という言葉にひそむ”母と海”の関係を浮き彫りにする。
日本語の「海」の右半分に母という文字がはめ込まれている。「海」の右半分は黒々と深い「うみ」の意味であるから、つまり、すべての生命の母であるところの海を表している。
四十億年前、生命は海中で誕生した。やがて、生命は単細胞生物から多細胞生物へと姿を変え、陸に上がる。私たちは陸に上がった生命の末裔である。海は生命の遥かな始源なのである。いのちの究極の故郷と言っていいだろう。
では、フランス語ではどうだろうか。フランス語の「母」はmere(メール)である。 そして「海」はmer(メール)である。母mereの中に海merが隠されている。フランス語では「母」の中に「海」がある。これは母の胎内に存在する海のことではないだろうか。
受胎し胎児が母体外に現れるまでの約十ヶ月の間、胎児は生命の歴史を早回しで体験する。羊水の中で、生命が海に生まれやがて陸に上がっていく過程を復習するのだ。私たちの中にも海があるのだ。
私たちが海を見て、広やかで安心した気持ちになるのは、「自分の中の海」と「大いなる海」が呼応しているからなのだ。その時私たちが、そして私たちの内なる海が感じているのは、いのちの究極の故郷への”郷愁”なのである。