曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
初体験というと、何か艶めいた話になりそうだが、それをも含め初体験ということについて、しばし考えてみる。
初体験は文字通り、初めて体験したことである。
うんと時間をさかのぼって考えてみる。初めて呼吸をした時、もちろんこれは、わたしたちがこの世に誕生したときである。初めて声を上げた時、これは初めて外界の空気に触れ、びっくりしてあげた産声である。初めてことばを発した時、これは「まんま」「ぱば・まま」「ぶーぶ」など、人さまざまであろう。
そのそばには、やさしくそれを喜んでいる両親・家族がいたに違いない。
初めて泳いだ時、初めて自転車に乗れた時、初めて電車に乗った時。わたしたちはこれまで、いろいろな「初めて」を体験してきた。そこには、不安や驚き、喜び、楽しみがあった。
しかし、ある程度の年齢になると、「だいたいのことはやってきたからな、今更初体験なんぞ…」と、もう初体験など味わうことがないだろう、と思うようになる。
でも、ほんとうにそうだろうか。
旅に出る。そこで初めてのものに出会う。新鮮な感情をおぼえる。これも初体験であろう。わたしたちは初体験を求めて、旅をするのかもしれない。
人生もまた旅のようなものだ、といったのは誰であったろうか。毎日毎日が旅であると考えると、そんな日常が違った様相を見せてくる。
私たちが、何とはなしに送っている毎日は、実は日々新たに出会う旅先なのだ。今日は今日である。しかし、誰も明日という旅先には到っていない。明日はつねに未知である。私たちは、毎日新しく日々と出会っているのである。
新しく訪れるその日に体験する出来事は、すべて初体験なのである。生まれて初めてなす、「その日」の体験なのである。
私たちは、初体験などすましてはいない。むしろ、刻々と初体験をし続けているのだ。