曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
キリスト教詩人の八木重吉の詩に「静かな 焔」というものがある。
静かな 焔
各(ひと)つの 木に
各つの 影木 は
しづかな ほのほ
あの静かなたたずまいを見せている木が、どうして焔なんだろう?詩の調べにひかれながらも、詩人が直覚したものに一方で謎を感じた。
『家裁の人』というマンガの中に、聴診器を持って森に入る人物が出てくる。 木にそれを当て、何かを聴こうというのである。
その人は、木の音を聴こうとしていたのである。マンガでは「ゴー」という音で表現している。樹木内の水管が水を吸い上げる音であるとか、枝が風を受けて霧動している音であるなど、諸説あるようなのだが、この音を聴いた登場人物の女性が「木が・・・生きてる・・・」と、思わずもらしたため息のような言葉に、私も全く同意する。
木はまぎれもなく生きている。
染織家の志村ふくみさんの『一色一生』という本の中に、次のようなエピソードがある。 志村さんは、染め物の染料を自然のものから作っているのだが、桜色のものをつくろうと桜の木を探していたそうである。そんな時、まだ時々粉雪の舞う頃、小倉山という山で、桜を切っている老人に出会い、枝をもらって帰り、早速煮出してみたそうである。すると、ほんのりとした樺桜のような桜色が染まったのである。
志村さんが桜をもらってきたのが、三月。三月の桜といえば、蕾がほころんでいる時節だ。桜の花が開く直前である。つまり、桜色は、花びらからではなく、枝全体から煮出されたのだ。あの何の変哲もない色の枝から、桜色が現れたのである。
桜の花は、桜の花だけで咲くのではない。木が全身で咲かせるのである。でなければ、枝から桜色が現れてくるはずがないのだ。
桜の木が、全身を桃色に染めているさまを想像してほしい。枝先の小さな花を咲かせるために、全身全霊の力で、身を花の色に染めているその様子を。
まさしく焔ではないだろうか。桜色に燃え立つ「ほのほ」。 そして、その焔はきっと、「ゴー」という音を響かせているに違いないのである。
それは、いのちの音であり、いのちの「ほのほ」である。
重吉は、きっと、それを直覚したのだ。