天上天下唯我独尊

風の道・・・つれづれに・・・



第26回 天上天下唯我独尊

 釈尊は、ルンビニーという花園で誕生した。母マーヤーが、アショーカ(無憂樹)という花を手折ろうとした刹那、産気づき、幼き釈尊・シッダールタが誕生した。 仏教経典は、釈尊手ずから記したものではない。そのため、後世の経典作者が釈尊を賛美するあまりに施した装飾的な伝説を、仏典のそこかしこに見ることができる。釈尊の誕生エビソードもそのうちの一つだと思われる。

 しかし、伝説であるからといって、はなから無視するわけにはいかない。そこには伝説なりの、いや伝説だからこそこめられているメッセージがきっとあるに違いない。

 釈尊の誕生逸話というのは、こうだ。

 誕生直後、天より甘露の水が釈尊に降り往ぎ、その身体を洗った。これが、現在行われている灌仏の由来である。甘露の水は誕生仏にかける甘茶になって いる。

 生まれたぱかりの釈尊は、しかし、すっくと立ち七歩あゆまれたという。そして、右手を天に、左手を地に向け指呼し、こう言ったのだ。

 「天上天下のうち唯だ我れ独り尊し」

 この言葉をまったくそのままに読めば、これは独善の言葉である。自らを高きものにし、他を低く見るという、何ともいやな感じのする態度を奨励するような言葉となる。しかし、そのような見方を、自讃毀他(自らをほめ、他をけなす)という煩悩であると断じる仏教には、そぐわない受け取り方だろう。

 では、どんな受け取り方をすればよいのだろうか。

 世界には、さまざまな人間がいる。人間に限らない。さまざまな存在がある。

 しかし、一人として、ひとつとして、私と同じ存在はない。似ているものがあるかも知れない。しかし、全く同じということはない。その時、私という存在はかけがえがないものである。たった一人しかいない「私」という存在。それを釈尊は、「天上天下(世界の中に)唯我独尊(かけがえのない私がある、そのことこそ尊いのだ)」と言ったのではないか。

 そしてその「かけがえのない私」が、なぜだか今ここに存往しているという不思議。どこから来たのか、どこへ行くのかわからないけれど、しかし、今私は、ここにいる。そのことへの驚きを、釈尊はまた彼の語にこめたのではないか。この時「唯我独尊」は「唯だ、我独り。尊し」という分かち方をすることになるだろう。

 いずれにしても、誕生時に釈尊が発した言葉は、自らを高くするものではない。それは、「私という存在への驚き」であるに違いないのである。


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