曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
「麦の秋」と書いて「ばくしゅう」と読む季語がある。「秋」がつくので、秋にまつわる言葉だと思ってしまうが、夏の季語である。この場合の「秋」は、取り入れ時という意味で、すなわち麦の収穫時期である五月下旬頃をいう。
ちょうどこの頃に電車に乗ると、車窓から黄金色の麦の畑と、青々とした稲の水田が隣同士にひろがっていて、とても不思議な美しさを感じることがある。若さいっぱいにすっくと立っている稲と、成熟し老成し収穫を待つ麦とが、同時にそこにあるのだ。
電車の窓に凭れて、窓外のそんな風景をみながら、ふと、「稲にとって、麦はどんな存在なんだろう」という思いが浮かんだ。そしてこう考えた。「麦はおじいちゃん、おばあちやんだ」
稲は青春のまっただ中にいる。青々とした自分の身体の色が、いつまでも変わらないものと思っている。しかし、麦は教えるのだ。「いつかは君も、わたしのような色になるのだよ」と。変わらないものはないのだと、自身の存在によって示すのである。
しかし、麦は稲をおどかしているわけではない。「だからこそ、ひとときひとときを大切にしなさい」と、その美しい豊かな黄金色を通して語っているのだ。
そして、麦は稲にだけではなく、私たちにも同じことを教えている。
「今」を感じ、「今」を生きたとき、私たちもきっと、麦秋の頃、水田の向こうに見える麦の色のように、深く生き、熟していけるのではないだろうか。