ダイヤモンドのジャッキー・ロビンソン

風の道・・・つれづれに・・・



 第3回 ダイヤモンドのジャッキー・ロビンソン

 ジャッキー・ロビンソンをご存じだろうか。

 野茂英雄投手が現在在籍しているロスアンゼルス・ドジャースが、ニューヨークのブルックリン地区に本拠地を構え、ブルックリン・ドジャースと名乗っていた頃のことである。
 この物語は第二次世界大戦中の1943年、ブランチ・リッキーという男が、ブルックリン・ドジャースの会長に就任したところから始まる。

 当時のドジャースは決して強いチームではなかった。リッキーは選手の補強をまずチーム再建策として挙げたが、白人選手だけでは限界があると考えていた。
 多くの選手が兵役にとられ、将来を託すべき選手が払底していたのである。

 大リーグと並行し、その頃のアメリカには黒人リーグが存在した。ベーブルースよりホームランを打ったとされるジョッシュ・ギブソンや、後に58歳でメジャーリーグ入りした投手サチェル・ページなどの名選手が活躍していた。
 しかし、人材不足だからといって、人種差別の激しかった当時、どのチームも黒人選手を入団させようという考えはいだかなかった。
 しかし、ブランチ・リッキーはその考えを実行に移したのである。

 彼は、黒人リーグでプレーしているあらゆる選手を調べさせた。優れた野球の才能を有しているのは勿論のこと、必ず反発があるであろう社会との闘いのための、強靭な精神力、忍耐力をもつ選手を探したのである。
 そして、選ばれた選手はジャキー・ロビンソン、時は第二次世界大戦の終了した1945年、ジャッキー26歳の夏のことであった。

 翌年、ジャッキーはドジャース傘下の3Aモントリオール・ロイヤルズに入団する。ブランチ・リッキー、ジャッキー・ロビンソンの家に嫌がらせの手紙や脅迫状が届き、スタンドからは耐えられない程の汚い野次が飛んだ。
 だが、ジャッキーはそれに耐え、3割7分の打率を残す活躍をし、ロイヤルズを優勝に導いた。
 優勝の日、モントリオールの街では、黒人も白人も抱き合って歓喜したという。

 1947年、ジャッキーはブルックリン・ドジャースに入団する。黒人メジャーリーガーの誕生である。ポジションは2塁手。
 しかし、そこにはモントリオール時代以上の激しい嫌がらせ、野次が待っていた。
 そしてそれだけではなく、チームメイトのサボタージュもあった。彼とはプレーすることはできないと、シーズン前に何人かの白人選手がチームを去っている。シーズンが始まってからもチームメイトとの関係は決して良好とは言えなかった。

 だが、彼は走攻守すべてにすばらしいプレーを続けた。周囲の罵りにも耐え、常に紳士的態度を保っていた。

 シーズンも後半に入った、八月末のことである。カージナルスとの試合、内野ゴ口の送球を受けようと一塁に入ったジャツキーの足を目掛けて敵の選手がスパイクの歯を立てて滑り込んだ。
 ジャツキーのユニフォームは裂け、血が滴る。その時、ドジャースが一丸となった。
 ジャキーをかぱい、猛烈に抗議したのはチームメイトである白人の選手達だった。
 そして、世論もジャッキー・口ビンソン、ブランチ・リッキーを支持するようになる。

 このジャッキー・口ビンソンの成功は、メジャーリーグへの黒人選手入団の道を大きく開いた。
 そして何より人種差別撤廃の偉大な先駆けとなった。

 ジヤツキーを偉大ならしめたのは何だろうか。


 仏教の実践徳目の中に「精進」というものがある。これは弛まずはげみ続けることである。
 釈尊とその弟子たちは、全身から輝くような光を放ち、えも言われない魅力を漂わせたという。
 これは、常の精進、はげみの中から生まれてくるものではないだろうか。

 ジャッキーが聖人君子のように、平気であらゆる障害に耐え乗り越えていったのではないことを、彼の妻レイチェルが語っている。
 彼は打ちひしがれ、苦悩しながら、闘ったのである。

 しかし、彼ははげみ続けた。それが彼を支えた。

 そして、そのはげみによって研かれた野球のプレー、彼の人格が、チームメイトの心を打ち、ファンの心を打ったのである。

 人生は野球に似ている。9イニングの大半は平坦なものである。
 しかし、必ずピンチに遭遇し、チャンスに巡り合う。その時、ピンチを乗り越え、チャンスをものにするのは、常のはげみのみである。
 ジャッキーの描いた軌跡は私たちにそう教えてくれる。

 ジャッキー・ロビンソンの背番号42はメジャーリーグの永久欠番となっている。


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