悲しさがくれるもの

風の道・・・つれづれに・・・



 第5回 悲しさがくれるもの

 啄木石川一は、明治四十年初夏から翌明治四十一年春までの約一年の間、函館・札幌・小樽・釧路と北海道の地を転々とする放浪生活を送った。

 啄木の実家は、岩手県渋民村の宝徳寺という曹洞宗寺院であった。
啄木は神童の誉高く、学業において優秀な成績を修めていたが、文学の魅力にとりつかれ、成績を落としていく。浪漫主義の影響を受け、いたずらに文学的自我が膨張していき、現実の生活者としての自分の姿とどんどん離れていった。
 明治三十七年末、啄木十九の年、父石川一禎が宗費滞納による曹洞宗宗務院の住職罷免処分を受けた。一家の経済状況は次第に困窮の度を深め、明治四十年一家は離散する。
 かくして啄木は、母を渋民村の知人に、妻子を盛岡の実家に託し一家の経済立て直しのため、北海道に渡るのである。

 啄木の一生は借金に彩られている。給料の前借は日常茶飯事であったし、函館時代の宮崎郁雨、東京時代の金田一京助などの、啄木に理解を示す友人などから無心をすること多大なるものがあった。
結局彼の死後残った借金は当時の額として二干円余り、現在の額に換算すると千五百万円ほどの借金を築きあげていた。

 北海道時代もそれの繰り返しであった。職場にも馴染み、友人を多く得た、啄木の一生の中で最も幸福であったといわれる函館時代は、明治四十年八月の函館の大火で幕を引かれ、次いで札幌においては、職場の上司と喧嘩をして辞め、小樽では社の内紛に加担し退社勧告を受ける。そうして北の果ての町釧路に赴くのである。

 啄木は狼費の人であった。人の心を打つような借金無心の手紙をきき、現金を手に入れたかと思うと、啄木は急に気が大きくなり、借金の返済、家族への送金にあてす、カツレツを食らい、遊廓へ通い酒を飲んでしまうという悪癖があった。彼の空想癖、現実逃避からくるものであった。啄木自身もそのような自分に嫌悪を抱いてい たはすだが、嫌悪が増せば増すほどやはり狼費に身を委ねてしまっていた。そうして、歌だけが彼の口からぽろぽろと零れ落ちた。

 啄木は悲しかったであろう。生活者としては完全に失格である。どうしようもない男である。しかし、そんな自分をどうすることもできなかった。それは単なる甘えでしかないかもしれない。けれど人間にはどうしようもできないことをひとつやふたつは抱えているものである。どうしようもない悲しさ、悶え、絶望が、彼の短歌の 土壌となった。
 北の果ての大地を踏みしめながら、啄木の口から歌が零れる。

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな

さらさらと氷の屑が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな

 啄木の眼は、北の大地の美しさを見出している。透明な風景に心を震わせている。
  法華経寿量品にこういうことばがある。

「常懐悲感 心遂醒悟」

 常に悲感を懐けば心は遂に醒悟せり。

 常に悲感を抱いていれば、心はさえざえと澄んでくるというのである。
 石川啄木の悲しみは、彼に透明な世界を与えたに違いないのである。北の大地を悲しくさすらうことがなければ、これらの歌の世界は見出だされなかった。

 私は七年前に祖父を亡くした。冬の日の朝のことであった。祖父が息を引き取り、主治医を迎えにいくため私は玄関を出た。そこに広がる光景はいつもと変わらない冬の朝のものだったが、僕にはとても澄んだ空気が感じられた。
 畑仕事をしている隣のおじさん、家の前を自転車で通っていく中学生、それらが透明な風に包まれているようだった。私はこの光景を忘れることはないだろう。

 八木重吉というキリスト教詩人の詩に、

「かなしみのふしぎさよ かなしい日に 樹は こうごうしい  かなしみのちからづよさよ かなしき日 いつわりのうすきわれかな」

というものがある。
例えば、悲しさは冬の風である。その冷たさは心を澄んだものにする。樹を神々しく見せ、自らがいつわりうすき人間に思えてくるのである。

 啄木は悲しき人である。八木重吉もまたしかりである。悲しさを心に抱き続けることはとても苦しい。しかし、その苦しさの果てに、透明な風景が見えてくる。それは石川啄木の短歌であり、八木重吉の詩であり、私の見た朝の風景である。

 それはきっと、悲しさのくれるご褒美なのだ。  


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