曹洞宗 貞昌院 Teishoin Temple, Yokohama, Japan
幼い頃夜空を見上げて、古の人類が、さまざまな物語を織り込んだ神々や鳥や動物のたゆたう星の海に、漕ぎだす夢を見たことがあるだろう。
五万光年という言葉が、五万年前に恒星が発した光が今日の夜空に到達したこと、その星がもしかしたらもう死んでしまっているかもしれないということを表していると知ったとき、夜空の漆黒の闇に空恐ろしさを感じたことがあるだろう。
人類が太古より最も親しんできたであろう天体は、月である。月の規則的な満ち欠けは暦の基準となり、月に映る影は人類の想像を駆り立てたくさんの物語を産んだ。
その月に人類は到達した。一九六九年のことである。「アポロ計画」というローマの太陽の神の名を冠した計画は、人類を月に送るということで、私たちの思考の視点を大きく転換させた。
もちろん、月に降り立つこととなったアポロ十一号の二人の乗組員ニール・アームストロング、バズ・オルドリンの前に、地球の大気圏外に達した者は数多く存在した。
しかし、別の天体に立つということは地球の周回軌道にとどまっていることよりはるかに革命的な事件なのである。
地球周回飛行をその目的としたマーキュリー計画の宇宙飛行士によると、地球周回軌道から見る地球は眼前に拡がっており、まるで母なる地球に自らが包まれているように感じるのだという。
しかし、月に向かうアポロ計画の各ロケットに搭乗していた飛行士たちが月面から見た地球の姿はまったく異なるものだった。
アポロ十六号に乗り組んだジム・アーウインの言葉をここで借りよう。
「地球を離れて、はじめて丸ごとの地球を一つの球体として見たとき、それはバスケットボールくらいの大きさだった。それが離れるにしたがって、野球のボールくらいになり、ゴルフボールくらいになり、ついに月からはマーブルの大きさになってしまった。
はじめはその美しさ、生命感に目を奪われていたが、やがて、その弱々しさ、もろさを感じるようになる。感動する。宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石。それが地球だ。
地球の美しさは、そこに、そこだけに生命があることからくるのだろう。自分がここに生きている。はるかかなたに地球がポツンと生きている。他にはどこにも生命がない。自分の生命と地球の生命が細い一本の糸でつながれていて、それはいつ切れてしまうかしれない。
どちらも弱い弱い存在だ。かくも無力で弱い存在が宇宙の中 で生きているということ。これこそが神の恩寵だということが何の説明もなしに実感できるのだ」
美しいことばである。
彼は地球のいのちとひとつつながりになっている自分のいのちを実感するのである。地球は小さくかぼそく見える。自分自身も小さな存在だ。しかしこの弱く小さい命は確実に宇宙の暗黒の中に存在している。そのことをクリスチャンであるアーウインは「神の恩寵」であると感じる。
地球がかぼそく見えることで、わたしたちは地球に包まれているときより激しく地球の生命、自分の生命を感じるのだということを彼の内的体験によって知ることができる。
ブッタは生命の中に真理を見いだした。生まれ、老い、病んで、死んでいくという営みのなかにいのちの輝きを見た。いのちは広く深い。わたしたちはその懐の中で生きている。わたしたちは地球の子なのであり、いのちの子なのである。
月が夜空に輝いている。月の光を浴びながら、わたしたちは遠く宇宙に思いを馳せる。その時わたしたちの心は無限に拡がっていく。
そして、わたしたちは地球の光を浴びていのちを深く感じる。
月の光と地球の光。わたしたちを照らすふたつの光がある。