日常の輝き 或いは 渡良瀬川の夕焼け

風の道・・・つれづれに・・・



 第7回 日常の輝き 或いは 渡良瀬川の夕焼け

 私たちは毎日毎日至極単調な生活を送っていると感じるだろう。

 朝起きて、顔を洗い、朝食をとり、歯をみがく。「行ってきます」と声をかけ、ぎゅうぎゅう詰めのバスや電車に乗って、学校や職場に向かう。授業・仕事をこなし、これまたぎゅうぎゅう詰めのバス・電車に乗って帰宅。夕食を食べ、晩酌をする人は先にお風呂に入り、風呂上がりのビールを手酌で飲んだりする。野球中継をぼんやりと見ているうちに眠くなってきて、ベッドに倒れこむ。そしてまた気が付けば朝。

 そんな毎日はもう我慢ならんと、大声で叫びたくなる。一人の知り合いもいない、どこか遠いところへ行きたいと思う。この灰色の日常から逃げ出したくなってくる。

 しかし、ここで私はある年配の修道女の語った言葉を思い出してしまうのである。

 それは、修道院の雑用とも思えるひとつひとつの仕事について、若い修道女たちに諭していった言葉。

「雑用という用はないのです。もし、雑用というものがあるとしたらそれは、あなたの心が粗雑になっている時なのですよ。」

 とても耳の痛い言葉である。しかし、はっと何かを気付かせてく れる言葉でもある。

 私たちは、単調な灰色の生活を送っていると思っている。だが、それは私たちの心が単調で灰色なものになっているからなのではないだろうか。

 私の住む町の近くを、渡良瀬川が流れている。その土手の上をよく歩くことがある。たいてい夕暮れ時である。

 渡良瀬川の河畔は、葦が群生しており、葦の原となっている。そんな広大な風景を夕日の茜色が染め抜いていく。ゆっくりとゆっくりと日は沈んでいく。空に浮かぶ雲も、沈みゆく太陽にあわせ、微細に色を変えながら風に流れていく。何ともいえない感情が、胸に染み入っていく。

 ふとあることに気付いた。一昨日も渡良瀬川の夕焼けをこうして眺めていた。その時の夕焼けも今日と同じような夕焼けだった。けれど全く同じだといえるのだろうか。

 まず、色が微妙に違うだろう。風の強さも違う。空に浮かぶ雲の位値ももちろん異なっている。そうなんだ、一昨日の夕焼けと今日の夕焼けは同じように見えるけれど、でも今見ている夕焼けは、一昨日の夕焼けでもなく、昨日の夕焼けでもない、今日の夕焼けなんだ。たった今、二度と見ることのできない今日の夕焼けなんだ。

 そう考えてみると、私たちの送っている単調な毎日も、全く違った姿となる。

 今日の朝の歯みがきは、たった一度のかけがえのない今日の歯みがきであり、今日の朝食はたった一度の二度と取り戻すことのできない今日の朝食であり、今日の通勤通学はたった一度のかけがえのない今日の通勤通学であり、今日の入浴はたった一度の二度と取り戻すことのできない今日の入浴なのである。

 この時、灰色の毎日は輝きはじめるのである。   


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